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東京高等裁判所 昭和55年(行ケ)220号 判決

原告 平塚寿男

右訴訟代理人弁理士 恩田博宣

被告 特許庁長官 志賀学

右指定代理人 渡辺弘昭

〈ほか三名〉

主文

一  特許庁が昭和五一年審判第一〇三八二号事件について昭和五五年六月六日にした補正却下決定を取消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者が求めた裁判

原告は主文同旨の判決を求め、原告は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二当事者の主張

一  請求の原因(原告)

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和四六年五月二九日、名称を「苔付け用の種物質」とする発明(以下「本願発明」という。)について特許出願したところ(昭和四六年特許願第三七二七〇号)、昭和五一年七月一七日拒絶査定を受けたので、同年九月二五日審判を請求し、これが特許庁昭和五一年審判第一〇三八二号事件として審理され、昭和五五年二月一二日本願発明は未完成である旨の拒絶理由通知を受けたので、同年三月三一日付の手続補正書により明細書の特許請求の範囲及び発明の詳細な説明の一部を補正したが(以下「本件補正」という。)、同年六月六日「本件補正を却下する。」との決定があり、その謄本は同年六月三〇日原告に送達された。

2  本願発明の特許請求の範囲

(一) 本件補正前の特許請求の範囲

(1) 自然に生育している苔又は人工的に栽培した苔を採取して水洗により枯葉、土、雑草等の異物を除き、これを手で触れた場合に若干粉状に砕かれる程度になるまで自然乾燥の場合は直射日光を避けて影干しにし、人工乾燥の場合は四〇℃以下の温度で乾燥し、もむか裁断するかに細かな粉体としたことを特徴とする苔付け用の種物質。

(2) 前記(1)の種物質に対し、苔の発芽に必要な養分を与え得る魚粉、油かす、こぬか等の有機物よりなる粉状固形物を混合したことを特徴とする苔付け用の種物質。

(3) 前記(1)の種物質に対し、土壌を酸化し得る粉状固形物を混合したことを特徴とする苔付け用種物質。

(二) 本件補正後の特許請求の範囲

本件補正前の特許請求の範囲を、このうち前記(一)の(1)の、「自然に生育している苔又は人工的に栽培した苔」とあるを「自然に生育しているセン類のマゴケ類の苔又は人工的に栽培したセン類のマゴケ類の苔」とするものである。

3  決定の理由の要点

(一) 本件補正の要旨は次のとおりと認められる。

(1) 明細書の発明の詳細な説明の項において、「うまく苔をはやすための」の記載を、「うまく苔、特にセン類のマゴケ類の苔(以下単に苔と称する。)、をはやすための」と訂正する。

(2) 特許請求の範囲の記載を前記2の(二)のとおり補正する。

(二) そこで、願書に最初に添付された明細書と補正された明細書とを比較対照するに、補正された明細書の特許請求の範囲においては、「セン類のマゴケ類」と限定しているが、願書に最初に添付された明細書(以下「原明細書」という。)には、単に「苔」との記載があるのみで、苔の具体的な種類については、なんら記載されていない。

そして、本願出願当時セン類のマゴケ類の苔について、本件補正後の特許請求の範囲記載の構成要件を備えた発明が完成していたことが原明細書の記載からみて自明の事項とは認められない。しかるに、原告は本願出願後セン類のマゴケ類の苔について右発明を実験的にたしかめたとして、出願当時からセン類のマゴケ類の苔について右発明が完成していたものとして、本件補正をしたものであるから、本件補正は明細書の要旨を変更したものである。

(三) してみれば、本件補正は、審判において準用する特許法五三条一項の規定により却下すべきものとする。

4  決定を取消すべき事由

決定の理由の要点のうち、本件補正の要旨が決定認定のとおりであることは認めるが、その余は争う。決定は、本件補正が明細書の要旨を変更するものであるとの誤った判断のもとに本件補正を却下したものであるから、取消を免れない。

(一) 本願出願当時セン類のマゴケ類の苔について本願発明は完成しており、そのことは原明細書の記載上自明である。

原明細書には実施例とともに、本願発明の目的、構成及び作用効果について、十分な技術的裏付をもった記載がされている。右記載は被告がその主張(二)において述べる従来の苔繁殖に関する技術常識とは異なったきわめて特異な苔の栽培技術に関する技術的裏付のある具体的な記述を内容とするものであって、全くの想像のみではかかる記載ができるものではない。苔はその種類が多く、その種類によって、形状、繁殖の仕方、生育場所、分布状況、胞子の生存期間が異なるなど多種多様性の植物であることは被告の主張(一)のとおりである。しかし、セン類のマゴケ類の苔は苔植物のうち五〇パーセントを占めるものであり、しかも、①胞子嚢の中に胞子だけを作り、②原糸体が糸状又は板状で永存性があり、複数の配偶体を作り、③仮根が多細胞性である点で共通している。特に右の②の点はセン類のマゴケ類の苔に本願発明が適用可能であることを示すものであり、このことは実験的にも裏付けられている(甲第一〇号証の「苔の基テスト依頼についての回答」)。

したがって、本願発明はその出願当時苔植物のうち少なくともセン類のマゴケ類の苔について完成していたものということができるのである。原明細書は発明の対象となる苔についてその種類を特に限定していないとはいえ、セン類のマゴケ類の苔についての発明完成の事実は原明細書の記載上自明であり、その実施例もこの苔に関するものとして記載されているのである。

(二) このように、本件補正は原明細書苔に「苔」と記載されていたものを「セン類のマゴケ類の苔」と限定したにとどまり、他の技術的事項を付加したものではないから、明細書の要旨を変更するものではない。

二  請求の原因の認否及び主張(被告)

1  請求の原因1ないし3の事実は認め、同4は争う。

2  主張

(一) 苔は次に述べるように多種多様性の植物である。(イ)種類 苔は配偶体や胞子体の形質によって分類すると、ツノゴケ綱、タイ綱、セン綱(本願における「セン類」と同じ)の三種に大別され、セン類綱は更にミズゴケ目、クロゴケ目、マゴケ目(本願における「マゴケ類」と同じ)に分かれ、そのうえマゴケ目に限っても五〇余の科に分けられる。このように苔の種類は日本産のものだけでも一五〇〇種以上知られている。(ロ)形状 セン綱の場合、発芽した胞子は普通細い糸状の原糸体となり盛に分枝し、原糸体の上にはいくつかの小さな芽ができ、この芽が生成して茎や葉をもった緑色の苔ができるが、タイ綱やツノゴケ綱では原糸体はあまりのびないし、分枝も少なく、小さい盤状になることが少なくなく、出芽数もごく少なく一本のことが多い。(ハ)繁殖方法 苔は一般的には胞子で繁殖するのであるが、セン綱の多くの種では有性生殖のほかに無性芽を作り、無性芽が地上に落ちて新しい原糸体ができたり、或は葉や葉の一部が落ちて新しい苔となるいわゆる栄養生殖もごく普通に行われており、なかには胞子を作らず、専ら無性芽だけで繁殖する種もある。(ニ)生育場所 苔はその種類によって岩、樹木、地上、林床、その他特殊な場所(干上った池、水田の土)等異った場所に生育し、同じセン綱のマゴケ目でも、生育場所は同じではなく、種類によって右のような場所に各別に生育することが知られている。(ホ)分布状況 北方系のものと南方系のものに分かれ、同じ山でも山麓地域と頂上付近でも生育する種類を異にしている。(ヘ)胞子の生存期間 セン綱の胞子はかなり長期間(普通一年以上)腐らず残っているのに比べ、タイ綱の胞子体は柔らかくすぐに腐ってしまうという現象がみられる。

(二) 本願出願当時、庭園造り、盆栽用の苔を繁殖させる方法としては、適度な環境を人工的に作ることによって自然に生育するのを待ったり、又は自然に生育しているものを採取して植え付ける等が技術常識とされていた。

(三) 以上のような苔の多種多様性と本願出願当時の技術常識に照らすと、本願発明はきわめて特殊の手段で苔を繁殖させようとするものであるが、原明細書の実施例がセン類のマゴケ類の苔であることを示す記載はない。

(四) 原告は本願出願後セン類のマゴケ類の苔についての実験結果であるとして甲第一〇号証を提出して本件補正をするに至ったのであるが、右回答書記載の実験結果によるも本願出願当時セン類のマゴケ類の苔について本願発明が完成していたものと認めることはできない。

(五) このように、セン類のマゴケ類の苔についての本願発明が完成していたことは原明細書の記載上自明な事項とはいい難く、本件補正は明細書の要旨変更にあたり、許されないものというべきである。

第三証拠関係《省略》

理由

一  請求の原因1ないし3の事実は当事者間に争いがない。

二  本件補正の要旨が決定の認定のとおりであることは当事者間に争いがない。《証拠省略》によれば、原明細書の特許請求の範囲には「(一) 採取した苔から異物を除き乾燥し粉体としたことを特徴とする苔付け用の種物質。(二) 採取した苔から異物を除き乾燥して粉体とし、これに苔の発芽に必要な養分を与え得る魚粉、油かす、こぬか等の有機物よりなる粉状固形物を混合したことを特徴とする苔付け用の種物質。(三) 採取した苔から異物を除き乾燥して粉体とし、これに土壌を酸化し得る粉状固形物を混合したことを特徴とする苔付用の種物質」と記載されていたこと、原告は昭和四九年一〇月一日付手続補正書により右特許請求の範囲を請求の原因2(一)のとおり補正し(発明の詳細な説明の項の補正はない。)更に昭和五五年三月三一日付手続補正書により本件補正をしたことが認められる。

三  そこで、本件補正が明細書の要旨を変更するものであるか否かについて検討する。

1  《証拠省略》によれば、原明細書(前記昭和四九年一〇月一日付補正後の明細書も同じ。以下同様)はその特許請求の範囲の発明に関し単に「苔」と記載するのみで、これになんらの限定を付していないことが認められる。

そして、《証拠省略》によれば、本件補正前の明細書には、本願発明にかかる苔付け用種物質の作用効果として、「このように乾燥された苔付け用種物質(以下単に苔という。)は苔の種類によっても異なるが実験の結果ほとんどの苔が少なくとも三~五ケ月程度の保存に耐えることが確認された。従って、この苔種は乾燥状態におくことによってかなり長期の保存に耐えるので、これを大量に生産し、適量を袋詰にして拡布すれば一般の人でも次のようにきわめて容易に苔を人工的に生育させることができる。すなわち、苔の生育に適した条件をととのえてやり、気温は二〇度C~三〇度Cの気候のころを選んで、そこへ苔種を散布し毎日二回くらいずつ散水すれば約一ケ月くらいでうすい緑色の苔が発生し、徐々に苔に生育していくが、全体が苔としてはえそろうのには条件によっても異り三ケ月~一ケ年くらいを要する。」との記載があることが認められる。

2  しかし、右の記載は苔の種類を特定していないばかりでなく、《証拠省略》を検討するも、右の作用効果に関し実験データー等これを裏付けるに足りる具体的資料を示していない。そして、被告主張のとおり、苔には多くの種類があってそれぞれ性質が異ること及び本願出願当時の技術常識が被告主張のとおりであることは当事者間に争いがない。そうすると、原明細書には完成された発明の記載はないものと認めざるを得ない。

3  原告は、本願発明がセン類のマゴケ類の苔について完成していることは原明細書の記載上自明である、と主張し、《証拠省略》によれば、セン類のマゴケ類の苔が苔植物の約五〇パーセントを占めることが認められる。しかし、原明細書の前記作用効果に関する記載には、その作用効果がセン類のマゴケ類に関するものである旨の記載がないばかりでなく、そのことを裏付ける実験データー等具体的資料が示されていないことは前認定のとおりであるから、本願発明がセン類のマゴケ類の苔について完成していることが原明細書の記載上自明であるとはいえない。

原告は、「苔の基テスト依頼についての回答」(甲第一〇号証)を援用し、本願出願当時セン類のマゴケ類について本願発明が完成していたことは実験的にも裏付けられていると主張する。そこで、この点について検討するに、成立に争いのない甲第一〇号証によれば、原告は昭和五四年夏に長野県林業試験所に「苔の基」と称する物質についての発芽実験を依頼し、同試験所において同年九月一三日以来右「苔の基」を播付け管理した結果、約二〇日後苔の発芽がみられ、同年一一月に至りそれがセン類の苔であることが確認できたものの、その種名についてまでは確認できなかったことが認められる。

しかし、右実験は本願出願後九年以上を経過した時点で実施されたものであるうえ、実験に用いられた「苔の基」がセン類の苔に由来するものであったとしても、それがいつ、いかなる方法によって得られたものであるか、また、発芽したセン類の苔がマゴケ類に属するものであるか否かは右実験によっても明らかでない。したがって、前掲甲第一〇号証は、原明細書記載の方法によって作られ、少なくとも三ないし五か月程度の保存に耐えたセン類のマゴケ類の苔付け用の種物質の発芽効果を示した資料と認めることは困難であるというべきである。

加えて、《証拠省略》によれば原告は、前認定のとおり、本願出願の際本願発明の作用効果に関しこれを具体的に示す実証的資料を添付せず、その後昭和四九年八月六日付拒絶理由通知と昭和五一年七月一七日付拒絶査定において、いずれも原明細書の記載の不備とともに本願発明の効果を示す実験成績証明書の提出を促されながらこれに応ずることなくすごし、ようやく、昭和五五年二月に至り、前記甲第一〇号証の長野県林業試験所の実験結果を示す回答書を提出した後本件補正に及んだものであることが認められるのであり、かかる本願出願後本件補正に至る経過をも併わせ考えるならば、本願発明は、セン類のマゴケ類の苔についても、本願出願時はもとより本件補正時においても発明として完成していなかったものというほかない。

4  以上認定の事実に基づき、原明細書上の本願発明と本件補正後の本願発明を対比すると、前者はすべての苔植物についての発明であり、後者はセン類のマゴケ類の苔についての発明であるが、いずれも発明としては未完成であることが明らかである。そうすると、原告は原明細書記載の未完成発明の対象を本件補正により減縮したに過ぎないから、あたかも原明細書に記載された完成発明の対象を補正により減縮した場合と同様、本件補正は明細書の要旨を変更しないものと認めるのが相当である。したがって、特許庁としては本件補正を許し、減縮補正された事項について出願の許否を判断すれば足りるものと解すべきである。

四  以上のとおり、本件補正を却下した決定は結論において誤りであるから、その取消を求める本訴請求を認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 瀧川叡一 裁判官 松野嘉貞 牧野利秋)

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